さらば 愛しき総理 Ⅰ
 
 第68代・第69代 内閣総理大臣 大平正芳氏
 
(在任期間 1978年12月7日~1980年6月12日)
プロフィール
 
官邸の写真
 
1910年3月12日生
香川県観音寺市出身
東京商科大学卒業
(現一橋大学)
衆議院議員
前職:大蔵大臣
1980年6月12日没
 
 
はじめに
 大平総理が逝去されて34年、いまさら「さらば」などと付けると、時代錯誤もはなはだしく思われるかもしれないが、私にとっては今がそのときなのかもしれない。
 ここでは、政治的なことは勿論のこと、在任中の政策についての評価、総理自身の性格、実施された会議の内容等々については一切触れませんし、ましてや順位付けをするものではありません。というより、私にはその能力はありませんし、業務上知り得た機密の厳守に時効はないと思うからです。
 したがって、新聞・テレビニュースで報道されたこと、国会答弁等により知り得た事実と、私自身の心に残ったこと、印象・感想のみの記述となります。
 
 
現職総理の急死
 48年ぶりという戦後初の現職総理の急死は国民に大きな衝撃をもたらした。同時に週2、3回のペースで総理官邸に出入りしていた私にとっても、その衝撃は身内の死に匹敵するものがあった。
 故伊東正義官房長官は墓石裏面に直筆で
    「君は永遠の今を生き 現職総理として死す
       理想を求めて倦まず たおれて後己まざりき」と刻んでいる。
 
 
ノスタルジー
 私が速記者の道を歩むことがなかったなら、そして、この扶桑速記の存在がなかったならば、一度も入ることがなかったであろう内閣総理大臣官邸(旧官邸)、そして、身近に接することなど考えもしなかった「時の総理」。
 現役引退をも視野に入れ、血糖値の上がり下がりに一喜一憂している現在、ああ、あんなこともあったのだと、限りない懐かしさを覚えています。
 通常の感覚からすれば、総理府(現在の内閣府)との契約も3年目を迎えていたので、社内にだれか一人くらい総理官邸に行ったことがある者がいて当然だと思うのだが、不思議なことに官邸からの仕事の依頼はそれまでなかった。現在では入館の際には厳しいチェックがあるが、当時はどうであったか、まるで覚えていない。多分、フルネームと生年月日を事前に登録した気がするくらいである。
 初めて入る総理官邸の赤い絨毯の分厚さに足を取られ、転びそうになったこと、緊張と興奮が極みに達したことや、臨席の準備に取りかかると少しは落ち着きを取り戻し、私の目からは大きく見えた大平総理が話し始めたときの姿は、30年という歳月を経ても、ノスタルジーという魔法の中で、より鮮明に、自身の人生の誇りとして記憶の中に残っている。
 
 
割と早口
 話す際に「あー」「うー」と前置きすることから「あーうー宰相」とマスコミから揶揄されたり、今ならば完全にメタボと言われるであろうその体型と風貌から「鈍牛」などとも評された総理ではあったが、話すスピードは結構はやく、私の知る昭和51年以降の歴代総理の中でもはやい方ではなかったかと思う。
 全体的な感じとしては、白髪の目立つ、穏やかそうな人だったという印象が非常に強く残っているが、同時に、ある会議の際に見せた激しさに驚きを覚えたこともある。
 後になって知ったことではあるが、中学時代の総理は温厚で目立たない少年で、級友たちは後に政治家になった総理には当惑をしたという逸話も残っている。
 また、二十歳少し前にキリスト教の洗礼もお受けになっておられるようである。
 
 
継がれゆく構想
 在職中に提唱した「環太平洋連帯構想」は特に著名であり、今日のAPECを始めとするアジア太平洋におけるさまざまな地域協力へと受け継がれている。
 
 
1980年の世相
物   価  ◎大学卒初任給 \114,700円 ◎ガソリン1リットル155円 ◎カレーライス450円
出 来 事  ◎ジョン・レノン暗殺  ◎川治温泉ホテル火災  ◎1億円取得事件
ヒット商品  ◎ルービックキューブ  ◎ポカリスエット  ◎コードレスホン  ◎ミニ即席ラーメン
流 行 語  ◎カラスの勝手でしょ ◎赤信号みんなで渡れば怖くない ◎ぶりっ子 ◎トカゲのシッポ
音   楽  ◎スニーカーぶるーす/近藤真彦 ◎ダンシング・オールナイト/もんた&ブラザーズ
日本映画   ◎二百三高地  ◎蒼い時/山口百恵  ◎ギネスブック80
外国映画   ◎スターウォーズ/帝国の逆襲  ◎地獄の黙示録  ◎クレーマー・クレーマー
 
 
政界屈指の読書家
 「鈍牛」と評され、朴訥な印象のある一方で「戦後政界屈指の知性派」として北岡伸一氏が中公文庫「自民党」の中で評しているとおり、政治の場にあっても言葉を大切にし、読書家としても知られ、郷里の記念館には一万数千冊に及ぶ蔵書が収められているという。
 また、文才に恵まれていたようであり、『財政つれづれ草』『春風秋雨』『旦暮芥考』『風塵雑租』等、著作も多い。
 
 
大平正芳氏全著作
財政つれづれ草
(1953)
素顔の代議士
(1956)
春風秋雨
(1966)
旦暮芥考
(1970)
風塵雑租
(1977)
私の履歴書
(1978)
複合力の時代
(1978)
永遠の今
(1980)
大平正芳発言集
在素知贅
(1996)
大平正芳回想録
追想編
(1981)
大平正芳回想録
資料編
(1982)
大平正芳回想録
伝記編
(1982)
大平正芳/人と思想
(1990)
大平正芳/政治的遺産
(1994)
去華就實/聞き書き
大平正芳
(2000)
 
 
名答弁と失言
 「政治とは」との間に対して「明日枯れる花にも水をやることだ」という答弁。
 また、靖国神社参拝に関しての野党からの質問に対し「大東亜戦争に関する審判は、歴史が下すであろうと考えています」と答弁。
 訪米の折、当時の日米間の懸案となっていた捕鯨問題に関しての記者の質問に対し「クジラは大き過ぎて、私の手には負えません」と答えるなど、ユーモアのセンスもあり、頭の回転も早かったようである。
 反面、「東京に3代住むと白痴になる」と言って物議を醸したこともある。
 
 
9つの政策研究会
 大平総理が設置された9つに及ぶ政策研究会のすべてに複数回臨席した私にとって、今でも一番うれしいことは、現在行われている幾つかの会議において、当時の政策研究会の名前が出てくるときである。
 「故大平総理が提唱された○○」という発言を聞くたびに、いかに先見性のある政策だったのかと思わざるを得ない。
 当時はそんなことはわからずに、議事録の作成においても、新出の単語が圧倒的に多かったため、間違いがないようにと、会社近くの書店周りをし、必死になって調べたものである。インターネットでのキーワード検索に依存している今の人たちでは想像ができないことであろう。
 
当社が所有する9つの政策研究会報告書・資料集の写真
「家庭基盤充実のための提言」(左) 9つの政策研究会報告書
「対外経済政策研究グループ報告書」(右) 「環太平洋連帯構想」の1資料集を含む
 
 
哀 惜
 1980年6月12日、NHKのニュースで急逝を知った。解散・総選挙直前に行われた会議での速記席から見えた姿、立ち上がっての発言の際、背筋をぴんと伸ばし、右手の拳をテーブルにつき、やや早めに話したときの姿、あのときの光景が忘れられない。
 故伊東正義氏がインタビューの際に見せた哀惜の涙は、そのまま私自身の押し込めた涙でもあった。
 私の速記者人生の原点として、いろんな意味で心に残る、忘れられない、愛しき総理である。
文責・桑 田 茂
 
 
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